そんな願望日記です。
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続:さっぽろ雪まつり
発展へん 既読 初期の雪まつりで雪像を作るのは札幌の中学校・高等学校の生徒で、数は5、6個であった。 はじめのうち雪像は高さ7メートルを限度としていたが、1953年の第4回で北海道札幌工業高等学校が高さ15メートルの像「昇天」を制作した。 雪の塊を石材のように積んだアーチ状建築物に立像を建てたもので、大量の雪が必要であったため市はトラックとブルドーザーを動員して準備にあたった。 これは現在のような機械力を用いた大規模な雪像づくりの端緒となった。 1954年の第5回からは市民制作の像が加わった。 1955年の第6回には自衛隊、商社、市の出張所が加わり、様々な参加者による多数の像が並ぶスタイルが定着した。 しかし高等学校の雪像制作は3年生にとっては受験や就職活動との両立が困難になってきたことから、同回で打ち切られている。 1959年の第10回の頃から雪まつりを目当てに北海道の外から訪れる観光客が増え始めた。 札幌オリンピックがあった1972年の第23回には世界的に雪まつりが紹介され、これ以降海外からの観光客も目立つようになった。 1974年の第25回には折からのオイルショックの影響で雪運搬用のトラックの燃料が十分に確保できず、雪像の中にドラム缶を詰めて乗り切った。 同じ年に海外都市の派遣による国際雪像コンクールがはじまっている。 すすきの氷の祭典は雪まつり開催にあわせた独自のイベントとして1981年の第32回から始まったが、1983年の第34回より雪まつりの会場の一つとして組み込まれている。 1990年の第41回から中央区の中島公園が第4の会場として加えられたが、1992年の第43回をもって廃止された。 3回限りで廃止された要因として、中島公園会場は市民制作の雪像がメインだったため大雪像が少なく、集客力に欠けたことがあげられる。 観光立国を目指すなら やはり 外国人には まつり系をアピールしていかないといけない 是非 外国語でのアピールを!!!!! PR |
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